千葉県印西市にある松虫寺は伝説のある由緒あるお寺です。松虫姫の伝説というのがあります。
松虫姫の伝説
奈良時代、東大寺を建立した聖武天皇の第三皇女に松虫姫(不破内親王)という美しい姫がいました。
年頃になって重い難病にかかり、父母の嘆きはひとかたでなく、あらゆる治療の手を尽くしましたが病は重くなるばかりでした。
ある日、姫に坂東の下総に効経あらたかな薬師如来があるという夢のお告げがあり、天皇はわらぬもすがる思いで松虫姫下総に下向させました。
坂東は聞くも恐ろしい化外(役人の目のとどかないところ)の地であったので心細いこと限りなく、従者一人逃げ、二人逃げ、下総国府に着いた時には、杉自という乳母と数人の従者だけになっていました。
一行は国府を後に疲れた足を引きずるようにして印旛沼のほとりの萩原郷にたどり着きました。
すでに陽は西に傾き、訪ねる薬師堂は満々と水をたたえた湖沼を見下ろす丘の上にありました。
都を遠く離れて、見知らぬ坂東の人家もまばらな貧しい村里に佇む心細さは例えようもなく、人々はただ唖然と立ちすくむばかりでしたが、いまの松虫姫にとっては、この薬師仏にすがりつくほかほかに生きる望みはありませんでした。必死に祈ることだっけがただ一つの生きる証なのでした。
姫は心を取り直して、薬師堂の傍に草庵を結びました。その草庵で朝夕一心に祈り続けました。乳母や従者たちも近くに小屋をかけて姫と行を共にしながら、都で習い覚えた機織りや裁縫、養蚕などを村人に伝え、生活の糧としながらかしづいていました。
数年の歳月が流れ、姫の難病は跡形もなく全快しました。
姫や従者、里の女房や娘たちも大喜び。いまではすっかり松虫姫をしたってともに喜びました。病気全快の知らせは直ちに都へ届けられました。
都からは早速迎えの人々が差し向けられましたが、松虫姫は自分を親切に労ってくれた純朴な村人たちに報いるため、乳母の杉自を残し、都の技術を広めよと命じて、村人たちに見送られて都へ帰って行きました。
その時、都から姫を乗せてきた牛は年老いて乗用に耐えられなくなっていたので、乳母とともに残して行くことにしましたが、これを悲しんだ老牛は自ら近くの池に身を投じて果てたと言います。村人はその牛を憐れみ、今も「牛むぐりの池」と呼び語り伝えています。
松虫姫から詳しい様子を聞いた聖武天皇は、尊い薬師仏を野末の街道に晒しておくのは畏れ多いとして、僧行基に命じ、七仏薬師群像を刻して献じ、寺を建立し松虫寺と名付けました。
その後松虫姫は、異母兄塩焼王の妃となりましたが、皇位継承に絡む藤原一族の政争に巻き込まれ、2度にわたる流刑の悲運に見舞われながら数奇な生涯を終えました。遺骨は遺言によって松虫寺に分骨され、村人は境内に墳を建てて丁寧に葬り、松虫姫御廟とよんで現在に伝えています。
本堂の裏手に石の柵に囲まれた一角がその墳(つか)で、1本の老木がそびえる根元に石碑が埋もれたっていますが、裏側に宝亀2年2月12日と刻まれています。
境内には松虫姫が都に帰る時、銀杏の枝の杖を建てて行きましたが、芽をふき今に残るという老樹があり1200年を超えます。
松虫姫の御廟を守ってこの地に没した杉自の塚は、寺の山門から200メートルほど離れた東の三つ辻にあります。(境内の看板より抜粋)
松虫姫は村人に愛されたんですね〜
松虫寺
奈良時代745年行基の開創と伝えられている。始めは三論宗、のち天台宗、そして真言宗に所属。
松虫寺の構成、南に面する仁王門、薬師堂は江戸時代享保3年に改築、松虫姫御廟、瑠璃光殿、鐘桜堂、四脚門、本堂は寛政11年建立で阿弥陀如来・不動明王・松虫姫尊像をまつっている、六所神社、松虫姫神社、客殿、墓苑。
↓山門の古木大きい!
境内の桜も見事↓
松虫寺の七仏薬師像
全国的に貴重な七体の薬師如来が安置されている。榧材を使った一木造りの彫眼像。平安後期の特徴を持つ。33年に1度開帳される。昭和34年国の重要文化財指定。
ご開帳の直近は2012年11月18日。う〜ん次は20年以上も先だ〜残念
ご開帳を見るクラブツーリズムのツアーがあったそうです。ご開帳法要がユーチューブにアップされてました!すごい賑わいです
印西大師第75番札所
斎藤ひとりさんの千社札見つけた!みっちゃん先生もあるよ
杉自塚
松虫姫の乳母、杉自の塚。村人が杉自に感謝の念を込めて塚を建てたと言われている。塚にはアカガシ、スダジイの二つの木が寄り添いくっつき仲良く立っている。縁結びの塚とも呼ばれている。
松虫姫のお話動画YouTubeで見つけました
とってもわかりやすく、細かく描けれています
嵐で荒れる印旛沼が割れて渡った!月割れの浜というらしい
松虫コーヒーに寄ろう
松虫寺のすぐ横にあるカフェ。
コメント