30年振りの訪問。鬼押出し園。
小学生の林間学校以来じゃないか?子供の頃はこんなに絶景とは気が付かなかった。
溶岩の下で人が死んでるのかな?と想像して怖い場所だった。
浅間山の麓に広がる、まるで芸術作品のような溶岩たち。鬼押出し園は、上信越高原国立公園でもある。
鬼押し出しの由来
浅間山と鬼押出し園
浅間山の噴火は、1783年(天明3年)7月8日(旧暦)
4月、鳴動が始まり、大地は鳴り響く、その後、何度となく爆発、震動が起こる。
7月に入り噴火活動は最高潮に達した。7日の夕方から激しい噴火となる。
7月8日、前夜の鳴動もますます激しくなり、夜が明けても空一面黒煙に包まれ夜のように暗かった。
そして、午前10時頃、浅間山が光ったと思った瞬間、真紅の火炎が数百メートルも天に噴き上がるとともに、大量の火砕流が山肌を猛スピードで下った。
山肌の土石は溶岩流により削り取られた土石なだれとして北へ流れ下った。鎌原村を直撃した土石流れはその時間たったの10数分の出来事だった。
この噴火の際、最後に流出したのが鬼押溶岩流である。
(嬬恋村誌上巻自然界浅間山の生い立ち・浅間山の噴火史より抜粋)
合わせて知ってほしい、鎌原村にある「鎌原観音堂」
鬼押出し園から車で10分ほど、万座鹿沢口駅に向かう途中にある鎌原観音堂。浅間山大噴火の際には、この階段の半分以上が土石流で埋もれたという。この観音どうは高台にあったため階段を登り切った93名は命が助かったが、のち階段下には親をおぶっていたであろう親子の遺体が出てきたとか…
夏に訪問した際には多くの人が訪れていました。
お寺あります「東叡山寛永寺別院・浅間山観音堂」
天明3年(1783年)の浅間山大噴火では、ふもとの鎌原村をはじめ、吾妻川流域の村々が溶岩流や泥流によって飲み込まれ、1100名を超える犠牲者が出ました。
命からがら逃げ避難した人も、家屋を失い復興するための土地もない、窮地に立たされることとなりました。
そんな折、鎌原村の方々が時の寛永寺住職である輪王寺宮公延法親王様に哀訴し、輪王寺の宮様より住居のお世話をいただいたことが、この地と寛永寺のご縁の始まりです。
また輪王寺宮様は、噴火被災者の救済、復興だけでなく、自らも現地に赴き犠牲となられた方の追悼法会を親しく営まれました。宮様のこうした行いは、当時としては異例中の異例なことであり、地元の方々はただただ感涙にむせんだと伝えられ、こんにちでも「浅間山噴火大和讃」として語り継がれています。
その後も、天明噴火罹災者の170回忌にあたる昭和28年には、再び鎌原村の要請によって時の寛永寺門主が当地を訪れ懇ろな法要を営むなど、この地と上野寛永寺との深いご縁は続き、昭和33年、噴火罹災者の慰霊と様々な自然災害犠牲者の供養を目的とした浅間山観音堂が、天明の大噴火の爪痕を色濃くのこすここ鬼の仕出し園に、東叡山寛永寺の別院として創建されました。
観音堂本尊:聖観世音菩薩
浅間山観音堂のご本尊様は。寛永寺秘蔵の聖観世音菩薩像にご遷座いただきお祀りしています。厄難消除・所願成就に霊験あらたかな「鬼押出しの厄除け観音」としても参詣者からの信仰を集め、また天明の大噴火をはじめとする様々な自然災害で犠牲となられた方々の慰霊・ご供養が行われています。
奥之院本尊:炎観世音菩薩
奥之院のご本尊様は、昭和47年(1972年)の観音堂創建15周年を記念し、神成志保氏より寄進・奉安されました。設計・謹作はご息女の神成澪子氏によるものです。
志保氏が、浅間山観音堂を参拝されたのち、夢枕に観音様が現れ、浅間の聖地に観音像を建立せよとの仰せがあり、これを具現化されたものです。
茶屋で厄除け団子いただけます
この茶店は、漫画かアニメに出てきたらしく、ファンの聖地巡礼の場所になってました。
鬼押出し園には絶景がいっぱい
雲が綺麗だった〜〜
鬼押出し園には、散策コースが4つ。
様々な高山植物を見ることができます。
子供の頃、木はほとんど生えてなかった。ということは、あと数年すれば溶岩は木々に埋もれてしまうのかも〜
鬼押出し園:アクセス
鬼押出し園まとめ
絶景大好き!とんすけにとってお気に入りの場所となった鬼押出し園。でも、歴史を知れば知るほど、悲しい場所なのでした。
次回訪問したした際には、鎌原観音堂や浅間山観音堂で手を合わせようと思います。
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